北極の葡萄園

呑んだワインをひたすら記録しています。

ワインの記録が300回を越えた

 

 
 ワインの通算記録をつけ始めて300本に到達した。
 
 今回も、200→300の間に、6回ほど記録出来なかったグラスワインやボトル(記録を削除してしまった!)があったけれど、いずれにせよ、まだまだ飽きる気配も無い。
 
 ワインの味や香りを表現する語彙が貧困だと感じるようになり、自分が嗅覚をろくに今まで使っていなかった事に気付けたのは良かった。花や果物や料理の匂いを出来るだけ嗅ぐようになったら、ちょっとだけ世の中の彩りが増えたような気がする。世界の解像度が、嗅覚・味覚方面で少しだけ上がったというか。きちんとワインレクチャーを受けたりしているわけじゃないから、言葉は常に自分だけのもので、他人が同じように感じるような共通文法は欠いているけれども、出来るだけ自分なりに書き記すことで自分だけは感覚を誤解無く後で思い出しやすいよう、これからも精を出していこうと思う。
 
 とはいえ、もしも自分が呑んだワインの素晴らしさを誰かに伝えようと思っても、言葉は実態を近似することしか出来ない(言葉は常に実態を過小または過大にしか表現できない)のだから、本当に肝心なのは、ワインをより精緻にログ化するための言語表現ではなく、自分の五感の限りで、ワインと対峙することなんだろう。だから出来るだけ良い体調でワインに臨むように、これからも注意しなければならない。自分が病めば、同じワインでもきっとまずくなってしまうだろう。あるいは、日常生活の葛藤が大きすぎても、やっぱりワインはまずくなってしまいそうだ。けれども欲張ってついつい呑んでしまいがちだ。なかなか困ったもんだなぁと思う。
 
 日々のワインを楽しくするためにも、結局のところ日常生活がまず先にありきで、日常を出来るだけ安泰なものにして、安んじてワインが呑める生活を守るよう努めなければならないと自覚するようになった。ましてや気合いの入ったワインを開けようと思うなら、自棄酒ではなく、めでたい出来事なり、お客さんの歓待なり、ささやかな宴なりが無ければ、口実が立たない。今後、いい塩梅でワインを呑みたいと思うなら、一層生活を大切にすべきなのだろう。呑む者のコンテキストによって体験内容が変化し、言葉で捉えようとしても全然捉えきれないワインというobjectと良い付き合いが出来るよう、がんばっていこう。